令和の革命教員

学校教育はおかしいぞ

通知表=クリスマスプレゼント

 昨日は終業式でした。

 生徒たちにクリスマスプレゼントとして通知表を渡しました。

 

 ところが、この通知表・・・やっぱり疑問が残ります・・・

 

 通知表の数字って学生からすると非常に大切な要素だと思います。

 

 私自身も学生時代はこの通知表の数字に一喜一憂しました。

 

 現在、立場が変わって、評価をつける側になって多くのことに疑問を抱いています。その中のひとつに通知表の評定の数字があります。


 そもそも「通知表の数字」「成績」に関して私は、学生のころから、疑問を抱いてきました。都道府県によって、様々な成績の状況があると思います。そのため、私が現在住んでいる地域での学校教育現場での成績に関して、疑問に抱いたことを紹介したいと思います。
 
 中学校での成績は高校進学に大きな意味を持っています。それは「内申点」として入学試験を受ける前のアドバンテージになるからです。そのため、すこしでも良い成績を得ようと生徒だけでなく、保護者も興味を持っています。基本的にこの成績は、各学期末に渡される通知表を基に計算し、内申点を知ることができます。
 
 残念ながら、この通知表の数字は公平性に欠けます。なぜなら、それぞれの学校で評定(通知表での各評価=5段階が多い)の割合が決められいることがあるからです。

 どういうことかというと、A学校で80点で5の評定をもらうことがある一方で、B学校では85点で4の評定になることがあるのです。同じテストを実施することがないので簡単に比較することはできませんが、それぞれの学校の学習のレベルによって評定の差がうまれるということです。
 上記の場合、A学校は学力が低く、B学校では学力が高いので、5の評定の人数の上限となるテストの点数が異なってきます。そのため、B学校の生徒がA学校へ転校した場合、評定が5になることがあるということです。また、同様に、A学校の生徒がB学校に転校した場合は評定が4に下がることがあるということです。

 要は、地域によって学習能力の差があるため、各学校での評定の差が生まれてくるということです。そのため、他校では優秀な成績になるけれども、自校では、成績優秀者が多いため望ましくない成績になってしまう生徒が出てくるということです。


 
 最近では、この人数の割合に関する規定の文章は削除されたようですが、未だに暗黙のルールとして残っているようです。個人的には、不公平感のある成績でアドバンテージを作るのではなく、入学試験一発勝負のほうがいろいろ納得できるでしょうし、教員の業務改善にもつながると思うのですが、どういった狙いがあるのでしょうね。

 

 もしかしたら、こういった内容は公表すべきでないのかもしれませんが、社会の人々を納得させることができない評定のつけ方は問題だと思います。

 

 評定に関して間違った理解をしているかもしれませんが、少なくとも教員生活をしてきた中で違和感しか覚えません。特に学年の中で複数の教員で教科を担当している際にすべて同じ評価をしているはずがないからこそ、常に平等な評価がされているとは思いません。

 

 沈黙することは簡単ですが、意見を世間に出すことによって問題が明るみになるのかもしれません。この内容によって、何か大きな変化の兆しとなればありがたいです。

教育現場は差別によって成り立っている


 さて、以前、今年度から学習指導要領が変わり、成績(評定)が大きく変化することを少し書きました。この変化していこうとする姿勢はステキなものです。

改めて、今年度からの変化のポイントをまとめると以下のようになります。


​​​ 新学習指導要領において、育成すべき資質・能力の3つの柱は、「個別の知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」です。これまでの成績における4観点「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」と比べると、「技能」と「知識・理解」が合わさった形になります。​​​



 確かに、これまでの制度においては、課題等の答えを丸写ししたり、ノートを出せば、「関心・意欲・態度」の評価は高くなることができました。そのため、なかなか授業の理解ができない生徒に対して、「答えを写してくるのも勉強だ。」という教員がいたことも事実です。しかし、そういった答えの丸写しが生徒の学習のプラスに働かないことは明白です。表現を悪くすれば、「真面目にコツコツ頑張っている生徒」と「答えを丸写ししている生徒」の評価が「提出物を出した」という意味においては同じ評価になってしまうのはあまり納得はできません。

 

​​ ただ、今回の「粘り強く取り組む姿勢」や「主体的に学習に取り組む態度」は多くの問題を抱えています。(ここに書く内容は私が研修等で学んだことを踏まえて疑問に思ったことを書いているため、間違っているかも知れませんが、少なくとも本校での研修では以下のような判断となりました。)


 授業をする中で1時間の授業で内容を十分に理解できる生徒がいる一方で、家庭や塾でコツコツ学習に取り組むものの、なかなか点数に結びつかない生徒がいます。
 多くの生徒がいれば、

 「熱心に勉学に励まなくても80​点をとれる生徒」と

 「熱心にコツコツ努力して​60​​​点を取る生徒」
 

 がいるものです。


 わかりやすい例が、体育です。努力しても急激に足が速くなったり、身長や筋力の違いがあって、粘り強く取り組む前から、結果がおのずと見えているものもあります。ただ、今回の変更ではそこに関しては触れることがありません。

 そのため、50m走の授業があった際に速く走ることを目標にした授業があった場合、


A「指導も聞かず、50m走で7.0秒で走った生徒」
 

B「理想のフォームを追求し、教師の話を聞いて50mを全力で走って8.5秒の生徒」
   
   の二人がいた場合、Bさんは粘り強く取り組むことができなかったので、タイムの結果に表れることがなかったと判断されます。一方のAさんはタイムが良いので、粘り強く取り組んだのだろうという評価をすることになるのです。

 まぁ、今回の例は早く走るという目標だったのですが、「50m泳ぐこと」や「期末考査や小テスト等での点数」「習字における美しい字」等でも同様のことが容易に考えられると思います。



​​​​​

 そうした違いを考慮せず、ただ、粘り強く取り組むことや、主体的に学習に取り組む姿勢を評価に入れようとすること自体が今の日本の教育の問題です。学校現場においても、言われたから従うという状態ができあがっていますが、教育現場を十分に知らない人間が定めたルールに従っていてはより良い発展は見込めないものでしょう。


 いろいろ考えましたが、私個人からすれば、学校現場における「成績」はあまり必要ないものだと思います。なくなっても、大きく困らないものだと思います。進学等で影響を持っているから必要なものだと感じてしまいますが、入試の点数等で判断することができれば、不必要なものになると思います。教育現場での断捨離を願いたいものです。

人生って難しいです

「生きる意味ってなんだろう?」

 

「こんな苦しい状況で生きていて意味があるんだろうか?」

 

「私に生きる価値はあるんだろうか?」

 

こういった悩みがたまに自分の頭によぎります。何が楽しくて、何を目的に、私は今を生きているのだろうって、本気で悩む時がよくあります。

 

いったい、自分の存在の意味や価値はどのようなときに感じられるのでしょうか。

 

そういうことを考えていろいろ調べると、「自分の命のかけがえのなさ」や「大切さ」に気付くことが大切らしいです。

 

でも、それらは「自分自身」をどれほど見つめていってもなかなか感じられるものではないんですよ。見つめれば見つめるほど、取るに足りない自分が露わになってくる気がします。私たちは「誰かにとって必要とされること」「大切な存在であること」、つまり「他者」とのつながりのなかでこそ、はじめて「自分の大切さ」が実感できるというのはきれいごとのように感じます。

 

 例えばですが、精神的にも状況的にも一人ぼっちになってしまうとどうしたらよいのでしょうか。誰かにかまってもらうことがいやになって、自分で殻にこもろうとしてしまって、周りとの関係を作ることに憶病になってしまうと前向きにものごとを考えることなど到底できません。周りも手を差し伸べることなどないでしょう。

 

結局、時間が解決するしかありません。悲観的になった人に声をしつこく声をかけてくれる人なんてそうはいないと思います。また、どれだけの時間一人で過ごせば、心が回復するかどうかも全く分かりません。

 

私はかろうじて、引きこもりや不登校を経験しませんでしたが、予備軍であることは間違いないです。気づいたときには一人ぼっちだと実感することが多々あります。仲良く過ごしているようでも、休日に遊びに行くことなどありえないし、連絡が来ることもそうありません。

 

 心の病って本当に難しいです。生徒以上に大人も真剣に悩み続ける毎日です。そんなことを思いながら、今日も頑張るしかないかと自分に言い聞かせる毎日です

大人の理想と子供の教育

 今年度から、GIGAスクール構想という名のもとに、生徒一人一人に端末が渡されています。一応、機能や検索機能には制限が課されています。で、私の学校でもそうですが、意外と生徒は賢いもので、ゲームができるサイトを見つけたり、制限を取り払えるように試行錯誤したり、端末でいかにして遊ぶかということを考えています。立派だと思います。

 ところが、こういった行動は指導されます。場合によっては没収されてしまいます。理由としては、学校側が貸し出しているものだから、学習以外で使うのは良くないというものです。私自身はあまり納得できません。。。。

 

 教育という言葉は英語では「education」です。この言葉には“外へ導く”という意味があります。

 この言葉どおり、海外の教育では“教える”というよりも、“生徒一人ひとりの可能性を導き出す・個々の力を伸ばす”という意味合いが強いのです。

  

 

 海外では、日本のように“みんな一緒の平等を目指す”教育ではなく、生徒それぞれの能力に合わせた教育を行なうのが特徴です。
 そのため、できないことを叱ったり注意したりすることよりも、それぞれの能力や才能を伸ばすことに重点を置いています。

 

  そのため、何か秀でた能力を持っているだけで多くの人から認められます。
 先生や親が生徒の良いところをたくさん褒めることで、生徒は自分のできないことよりもできることに目を向けられるようになり、自信を持てることでしょう。
 一方の日本では、テストの点数で評価をすることが多く、個性を認めることなく、調和を求めます。ネット等での技術や知識はあまり評価されず、学校のテストでどれだけ点数を取ることができたかどうかが重要になります。そのため、知識の暗記を中心とした教育となっています。

  

 

 海外は考えて導き出すことを重視した教育です。そのため、日本のような暗記力が問われるテストをすることはほとんどありません。

 

 

 

 学校から課される宿題も、自分で調べたり考えたりしなければならないものが多く、決まった解答があるものよりも、いくつもの答えがあるような問題が出されます。暗記する力よりも、生徒自身の自主性・主体性を尊重し、学習への探究心を育むことを重要視しているといえるでしょう。

 

 
 

 

 そして、海外では義務教育中であっても留年があることも、日本と大きく違う点です。日本では、どれほど成績が悪くても義務教育中に留年することはありません。良くも悪くも、生まれた年が同じ生徒は、同じ教育を受けることとなります。

 

 

 

 海外では、できないことを強く批判されることは少ないのですが、進級できるレベルに達していないと学校や保護者が判断すれば、進級はできません。反対に、成績が優秀であれば、飛び級をすることもあります。年齢ではなく、個人の能力に応じた学年に配置するというのが一般的な考え方のようです。

 で、何が言いたいかというと、子供の学力低下が深刻だという話題があります。それについて様々な対策をしてきましたが、根本的に教育スタイルが間違っているということを理解しなければなりません。

 

 日本の教育は、全員が同じレベルを目指して教育することが前提です。例えば、合格するまで何度もテストをしたり、全教科の成績をまんべんなく伸ばすことを目指したりするなどの特徴が挙げられます。

 

 

この教育方法によって、諦めず繰り返し取り組む姿勢を身につけ、努力によって能力を伸ばせると考えられています。また、日本の教育はできることが当たり前とされているのです。
 
 「子供に真の学力を!」と願うのであれば、塾という存在もなくなっていくことでしょう。日本の教育は海外と戦う土俵が違うのに、同じ尺度で考えようとすること自体が間違っているのです。他国よりも優秀な教育ができていないのに、学力を高めることなどできるはずがありません。

 大人の理想を子どもに押し付けるような教育をして何が楽しいのでしょうね?

 

教員へのいじめはどうなる?

 これまでどれほど多くの子どもがいじめによって自殺してきたことか。だが多くの場合、「いじめはなかった」「気が付かなかった」などという学校や教育委員会の無責任な発表ばかりを聞かされてきました。

 はっきり言いましょう。
 いじめはどこにでもあります。
 
 いじめはなくなりません。
 
 そして、管理職や委員会の方々は教員をいじめています。教員の負担や現状を知っていて改善しようと努力するのではなく、見て見ぬふりをしています。
 
 また、地域や保護者の方も同様です。
 
 教員の現状を理解しようとせず、ただ、ひたすらに文句を言い、教育への協力体制を整えることができず、ただ、いじめているだけです。
 
 

「いじめはある」ことを前提に

 

 絶望的なことを言うが、人間社会でいじめは絶対になくならないと私は思っています。もちろん残念なことです。だが自分の生活している周りを見てみればよくわかります。ママ友なる集まりでも、会社でも、誰かに対する悪口や文句を口にすることはいくらでもあります。いじめは大人社会だってあるものです。

 動機は様々です。妬みの場合もあれば、自分の立場を守るための場合もあります。強者でいたいために、弱者を作り上げるための場合もあります。烏合の衆になる場合もあります。いじめに至る要因は、実に数多くあるものです。

 それが学校現場では、実に簡単に「いじめはなかった」などという結論が下されます。あきれ返ります。こういう結論を聞くたびに思うのは、「いじめはある」ということをなぜ大前提にしないのかということです。

 多くの場合、いじめや嫌がらせがあっても、笑って済ませたり、無視したりしながら、みんな耐えているに過ぎないものです。そういう想像力が必要です。

 

 

 

 

さて、今年度私の学級では「いじめ」がありました。指導しました。報告もしました。保護者の方へ連絡もしました。その後、大きな問題には発展していませんが、学校生活は順調に過ごすことができています。笑顔で過ごしています。ただ、関係者が学級の中で関わる機会は極力減らせるように努力しています。また、関係者以外の保護者の方も知っています。そして、だれもが、笑顔で学級内で過ごすことができています。きっとどこかでしんどい思いはしていることでしょうが・・・・・

 

 8割楽しく、2割は我慢です。

 

 ここが大切です。

 

 全員が楽しく過ごすことなんて到底できません。どこかで我慢しなければいけません。それを教えてあげることが大切です。

 また、学校で勉強することばかり取り上げるような指導は意味がありません。笑わせてやればいいんです。しょうもない雑談をしてやればいいんです。学校生活が楽しいと思えたらいいんです。 

先日、「私がクリスマスを一人で過ごさないようにするためにどうしたらよいのか」という話題や「もてる男子」とはいった話題で盛り上がりました。過去の失敗談を話して、笑ってもらえばいいんです。「女性に振られた話」をして、自分を笑ってもらえばいいんです。

 保護者の方も生徒が楽しく学校生活を過ごすことができていれば大きな文句を言ってくることもありません。大事なことはやはり、子どもが楽しく生活していることです。

 

 

 

 子どもを楽しくさせることを忘れて、時に保身に走ったり、嘘をついたりするからダメなんです。冒頭で話したように、学校現場のいじめを「見て見ぬふり」して改善しようとしない管理職や委員会の方々がいます。教員が楽しく働ける場所にする気がないんです。見て見ぬふりしかできない大人に、学校現場の子どもたちの苦痛を見てあげることなどできるはずがないんです。

 

 

部活動はボランティアだ

 直面する教育課題が増加している学校教育において、子どもや教職員を取り巻く課題は複雑化・多様化しています。その現状の中で、2017年3月、小学校学習指導要領と中学校学習指導要領が改訂・告示されました。

 その改定を受けて、各教科等の解説書の改編、教科書の検定も行われ、2020年代の教育課程とそれに基づく子どもと教育の新しい様相が見えてきています。

 

 現在、不登校やいじめ、校内暴力、貧困、児童虐待など、子どもを取り巻く課題は複雑化・多様化しています。地域によっては過疎化の進行による児童数の減少、地域の繋がりの希薄化、ひとり親家庭の増加による家庭の孤立化などといった問題もあります。また、問題を多く抱えながら、その解決の主体となる現場の教職員は「過度の負担」の状態であるという現実があります。

 

 例えば、始業前や放課後、休日の部活指導や生活指導など、文字どおり「朝から晩まで」「休日返上」で業務に当たっている教職員がたくさんいます。また、子どもたちが抱える課題が複雑化・多様化していることも、教職員にそれに対応するために学び続けなければならないというプレッシャーになっています。

 

  様々な問題がある中ですべての問題にすぐ取り組むことは困難です。そのため、まず、私が大切にしてほしいことは

 

「今まで以上に子ども一人ひとりと向き合い、個に応じた重点的な学習指導を行う」、「特別な配慮が必要な子どもそれぞれの状況に応じて個の能力を最大限に引き出す」「“地域とともにある学校”を目指し、学校と地域が一体となって教育を行う」といった内容です。

 

 学級の様子を見ていると、同じ授業に対して理解できる差が生じています。また、感染症対策の一環として、事情によって異なるが、2週間程度出席停止となる生徒がいます。ちょっとした学習の遅れが積み重なり、大きな不安となり不登校傾向につながる生徒が多いものです。そのため、空き時間を見つけてはサポートするように心がけています。また、貧困による学力課題が生じている場合に、放課後の学習相談や補充学習、家庭学習サポートなどきめ細かい支援を行っています。もちろん、一人での対応には限界があるため、学年職員等で協力しながら、いじめや不登校を未然に防ぎ、早期対応できるよう、組織的な指導体制を構築していきたいのです。

 ところが、先ほどの件はあくまで理想です。子どもと真剣に向き合い、成長を促そうと多くの時間をかけたい一方で、部活動等の教育課程外の業務が足かせになっているのが現状です。教員に個々の生徒に時間をかけていくだけのゆとりの時間はまともにありません。

 そこで、地域と学校が一体となって教育を行うべきだと考えます。

 

 多くの教員が経験がない部活動の顧問をしています。正直負担でしかありません。ざんねんながら、保護者からすれば「部活動をやらせろ」「教員だろうが!」という厳しい一言を頂くことが多々あります。

 改めて言います。

 部活動はボランティアです。私たち教員の仕事ではありません!!

 もちろん、生徒と過ごす時間は楽しいものですが、楽しいだけではありません。そのボランティア活動の中で、もめごとがあったり、休日の自由がなくなったり、無駄な出費がかさんだり、、、、プラスに働くことがあまりありません。好きでやっているなら、いいのでしょうが、やりたくもないことや、先輩教員の圧力、地域からの視線に悩まされながらやる活動に大きな価値があるのでしょうか?

 

 学校というチームだけでなく、子どもたちにかかわりのある人が全員で協力して子どもに向き合っていくことこそがこれからの教育に必要なことだと思われます。そして、学校だけでなく、国や地方の方々だけでなく、多くの人に部活動の在り方について真剣に考えていただきたいです。

信念をもて

 最近、ようやく冬季オリンピックの話題が上がり始めましたね。今年の夏のオリンピックの段階で私は下記のような記事を書きました。

 

 

オリンピックが終わったけれど、日本の判断は面白かった - 令和の革命教員 (hatenablog.com)

 

 日本の政治家の立場はひどいものがあります。というよりも、日本人の在り方に問題があるのかもしれません。責任や立場がないときは自由に文句を言い続けることができます。ところが、ひとたび責任ある立場になると、周りの目が気になってしまい、そして、自分より立場や責任がある人の視線や声を気にしてこれまでと全く違った行動をとってしまいます。また、逆に、周りの視線を気にすることなく、自由奔放なふるまいをして、一般市民の声には耳を傾けない姿勢が出来上がるのかもしれません。

 

 一貫して根底にあるのは「他者に厳しく、自分に甘く」ということなのかもしれません。

 

 私は中学校という限られた社会の中でしか活動をしていないので、他業種の方とのかかわりがほとんどありません。そのため、私の思想にもある種の偏見が介在していると思います。

 そのことを承知の上で申せば、私が中学校の中で理解できることは自分の所属する学年が限界であるということです。他学年の生徒のことを理解したり、他学年の教員と生徒の指導の在り方を共通理解することは到底できません。だからこそ、管理職(教頭、校長)が生徒を十分に理解することなどできないでしょうし、教員を十分に把握することなどできないとも思います。

 

 何がいいたいかと言いますと、私が今伝えてる学校の問題が多々ありますが、私の小さな社会(限られた学年や学校)の中だけの話であるということです。また、自分の担当しているクラス(約40人)ですら十分に意見を吸い上げることなどできません。

 

 これまでいろいろと文句を書いたり、不満を表現したりしておりますが、それは私自身に大きな責任や大した立場がないから自由に発言できるているだけで、ひとたび立場が変わってしまえば、そういった視点も消え失せてしまうのかもしれません。でも、今はとにかく、クラスや学年、保護者という限られた場所を見るだけで、ほかの学校や地域など全く見ることはできません。

 

 本当は管理職や政治家になるということはそういった視野を広く持てる人にこそふさわしいとは思いますが、そんな視野を持てる人などいるとは思えません。全員を満足させることなどできないでしょう。

 

 国がやることだからこそ、「絶対」という信頼がなければ、困ったものです。でも、常に選択を迫られる中で、毎度誰にとっても「絶対」の選択をすることなどできるはずがありません。今のウイルス対策や、オリンピック問題など、ちょっとした行動で周囲の目が大きく変わってしまいます。日本という限られた国民だけでなく、諸外国の目を気にしながら選択を迫られるから難しいものがあるんでしょうね。

 

 ただ、何事においてもそうだと思いますが、信念というものが大切になります。私の学級運営・授業・成績に関しては「真面目に頑張っている人が嫌な思いをしない」というものがあります。それをいつでも生徒に伝えています。

 

 ところが、今の政治家や管理職にはそういった姿勢が見えません。毎度ふらふらと悩んでいるだけで頼りない印象しか持てません。信頼につながらないのです。日本という国を学校をどうしたいのかその信念を相手に届けるところからスタートしてほしいです。