教育課題はどうしたら良い?
母が妹の子どもの子育ての応援のために他県に引っ越しをしています。手厚いサポートだなぁと感心する一方で、妹が働きながら子育てをすることに限界を感じたことがよくわかりました。私は結婚をしていないので、パートナーはいないのですが、結婚することによって見えてくる問題もたくさんあるんでしょうね。
さて、日本の教育問題はすべての責任を「学校」に丸投げしようとしてきた「社会」です。
こういった責任の擦り付け合いが大きくなり、次第に各学校の校長も教育委員会や文科省の指示待ち人間を大量生産するに至り、魅力的な学校づくりができなくなったと思っています。
実際、私の勤務校においても同じことが言えます。
管理職に相談に伺っても、
「委員会で検討中」
「他校では中止となっている」
というような、自ら意思決定できない人ばかりであふれています。
残念ながら、子どもたちの主体性を育もうとしておきながら、教育現場がこういった主体性に欠けた判断しかできない人の集団であるならば、一向に主体性を育む教育などできるはずがありません。
子どもたちの教育は学校だけの責任ではありません。保護者だけでもありません。地域や誰かにあるのものではありません。日本全体で子どもたちを育てようとする姿勢が大切です。
さて、本題ですが、私は大学で「哲学」を専攻していました。
はっきり言います。哲学は社会生活上必要ではありません。「神はいるのか」「時間・空間とは」「万物の根源とは」・・・。こういうことって、意見をぶつけているだけで答えは分かりません。そのため、そもそも「ある」とはどういうことなのか。「存在する」「しない」とはどういうことなのかが論争されるようになってきます。それもまた答えは分からないのですが・・・意外と面白い学問です。
でも、私が大学で学んできた哲学を生徒に披露する場面はほとんどありません。これが今の教育における問題だと思います。
私の知り合いにボクシングを専門にしている体育教師や、ソフトボールのインターハイで優勝経験のある国語教師、不動産業界で働いていた社会教師、世界一周を経験した家庭科の先生がいます。こういった経験は残念ながら学校の中で生かす場面はありません。教科書の内容を教えることばかりになってしまって、雑談で話すことがあっても経験を与えることはできません。私の哲学も同様です。
結局、私たちが学んできた「ワクワク」を伝える機会が全くないのです。
義務教育にしても、高校や大学の教育にしても、今の学校教育には、社会生活を送る上で、不要な内容が多すぎます。学校で習ったきりで、その後、使うこともない知識が多すぎるのではないでしょうか。
義務教育では、日常生活、社会生活を送る上で、必要な知識やマナーの他、人として、また、地域社会、日本、地球に住む住民として、最低限の知識、能力を養いたいものです。また、高校や短大、大学などでは、将来の仕事を見据え、実践力につながる専門知識・技術を習得できればと思います。
ただ、なんとなく成績に合わせて大学に進学する。東大や京大など、難関校に行くのが目標というのは、なんか違うのではないかと思います。
また、小・中・高、短大、大学に限らず、学校教育においては、もっと、地域や企業、その道の専門家などを巻き込んで、生きた情報を習得できればと思います。
学校教員は意外と面白い経験をしている方がたくさんいます。転職されて教員となられた方も多数います。ところが、そういった前職の経験や学びを披露する機会はありません。そういった授業をする時間もありません。私個人としてはそういった学びこそ最も価値のあるものだと思います。大学で学んだことを伝えたり、興味を持たせることも重要なことだと思います。
教育現場の教育内容を各教員の経験に基づいたオリジナルなものにして、各教員の魅力を高めていくことこそが、一番必要なことだと思いたいです。
長欠生の増加がすごい
不登校生と関わる中で、言いたいけど大きな声で言えないことがあります。
それは「学校なんて来なくてもなんとかなるわ」ということです。
たかが、中学校3年間。人生100年と考えたら、一瞬の出来事です。
私も精神的に病んでいた時期があるのでわかりますが、しんどい時は無理をしないことが一番です。今たくさんの迷惑を周囲の人に、親に、友人にかけているかもしれませんが、今の謝罪は、未来の自分にまかせてしまえばいいのです。
実際、中学校に行けなくても高校に進学することはできるし、大学へ進学すること、就職することも可能です。
ところが、大きな問題が1つあるのです。それは偏見です。
学歴を重視する社会であるため、どこかで逃げ出した過去があると、それをマイナス評価する人がいます。不登校であった人を受け入れない人がいます。失礼ですが、私が面接官だとしても、普通の人と、不登校生のどちらを選択するかと問われたら、普通の人を選択してしまいます。それが偏見です。おそらく多くの人がそういった見方をしてしまうのではないでしょうか。
今の社会は、変な思い込みで埋め尽くされています。学校に来なくても悪いことなどありません。でも、それを受け付けない社会の偏見があります。
学校教員として「学校なんて来なくても大丈夫」と胸を張って言うことができないのは、こういう社会があることを知っているからです。だから、保護者の方も焦ってしまい、さらに子どもを苦しめることになってしまいます。
多様な考えを受け入れようとしながら、結局それを受け入れる社会が全く形成できていません。偏見や差別がはびこっている社会の固定概念を崩していくことがあるゆる問題の解決につながります。
進路について考える
人間その気になれば何とかなります
受験生に接していると,そろいもそろって,みんな弱音を吐きにくることがあります。
「できない」
「どうせ,頭が悪いから」
「やってもダメだ」……。
私からしてみれば,こういう悩みはぜいたくです。
理由は簡単で、できない理由にならないからです。
私は,こういう生徒がくると,決まって「おまえは,バカじゃないんだ」と言ってやります。
この世の中で,受験勉強ほど公平で単純なものはないと思います。勉強をやった者は受かり,やらなかった者は落ちる。ただそれだけのことなのです。頭がいいとか悪いとか,そんなことは関係ありません。バカだから落ちるんじゃなくて,やってないから落ちるんです。
受験は,「やれば受かる」という,非常に簡単なことだと思います。私は,いままで良いことも悪いこともたくさんやってきましたが、どんなことにも手ごたえを感じたときには結果がおのずとついてきます。
そしてわかったことは,どんな世界でも”ごまかし”は通用しない,ということです。これは,受験勉強でも同じことではないだろうか。受験にはテクニックが必要だとか要領だとか言うけど,その前に正攻法でいくことです。
そのために必要なのが,受験勉強のやる気だと思います。
「受かってやるぞ」という気力があれば,「オレはダメだ」なんて思わずに,つらい受験勉強にも耐えられる。
カッコなんて気にせずに,髪を振り乱して必死にがんばればなんとかなる。
これは,私だけじゃなくて,これまで私が教えた生徒たちもみな同じだった。
よく,人生はつらいことがあるからおもしろいというが,毎日楽しくおもしろく,つらいことなんかなくて人生を終わったほうがどんなにかいい。
でも,それができないのが現実です。楽して大学や高校に入れたほうがいいに決まっているけど,そんなにうまい話があるわけがありません。だったら,できるだけ苦しむ時間を少なくしたほうがいいものです。落ち込んだり,ダラダラと勉強していてもしょうがないです。「やれば受かる」と信じて,とことん突っ走ってみればいい。
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私は学歴至上主義は嫌いですが、入試制度等はあるべきだと思っています。勉強することも大切です。でも学ぶ目的を教えてあげることが大切です。高校や大学に進学することが一つのステータスであると信じることは間違っています。今では、東大進学者数や、偏差値で多くのことを語ろうとする日本社会があります。これに対して、異を唱えることの方が大切です。
なぜ、学ぶのか。
大学や高校に進学するため、と答えるようでは価値がありません。学びの喜びを教えることこそが、最も大切なことなのです。どうしてその学校に進学したいのかそこを真剣に考えた進路選択をさせてあげることが大切です。
しかし、そういった進路指導はなかなかありません。だからこそ、そういった教育ができていないことが今の学校教育の問題だと思うのです。
大人の理想と現実
今年度から、GIGAスクール構想という名のもとに、生徒一人一人に端末が渡されています。一応、機能や検索機能には制限が課されています。で、私の学校でもそうですが、意外と生徒は賢いもので、ゲームができるサイトを見つけたり、制限を取り払えるように試行錯誤したり、端末でいかにして遊ぶかということを考えています。立派だと思います。
ところが、こういった行動は指導されます。場合によっては没収されてしまいます。理由としては、学校側が貸し出しているものだから、学習以外で使うのは良くないというものです。私自身はあまり納得できません。。。。
教育という言葉は英語では「education」です。この言葉には“外へ導く”という意味があります。
この言葉どおり、海外の教育では“教える”というよりも、“生徒一人ひとりの可能性を導き出す・個々の力を伸ばす”という意味合いが強いのです。
海外では、日本のように“みんな一緒の平等を目指す”教育ではなく、生徒それぞれの能力に合わせた教育を行なうのが特徴です。
そのため、できないことを叱ったり注意したりすることよりも、それぞれの能力や才能を伸ばすことに重点を置いています。
そのため、何か秀でた能力を持っているだけで多くの人から認められます。
先生や親が生徒の良いところをたくさん褒めることで、生徒は自分のできないことよりもできることに目を向けられるようになり、自信を持てることでしょう。
一方の日本では、テストの点数で評価をすることが多く、個性を認めることなく、調和を求めます。ネット等での技術や知識はあまり評価されず、学校のテストでどれだけ点数を取ることができたかどうかが重要になります。そのため、知識の暗記を中心とした教育となっています。
海外は考えて導き出すことを重視した教育です。そのため、日本のような暗記力が問われるテストをすることはほとんどありません。
学校から課される宿題も、自分で調べたり考えたりしなければならないものが多く、決まった解答があるものよりも、いくつもの答えがあるような問題が出されます。暗記する力よりも、生徒自身の自主性・主体性を尊重し、学習への探究心を育むことを重要視しているといえるでしょう。
そして、海外では義務教育中であっても留年があることも、日本と大きく違う点です。日本では、どれほど成績が悪くても義務教育中に留年することはありません。良くも悪くも、生まれた年が同じ生徒は、同じ教育を受けることとなります。
海外では、できないことを強く批判されることは少ないのですが、進級できるレベルに達していないと学校や保護者が判断すれば、進級はできません。反対に、成績が優秀であれば、飛び級をすることもあります。年齢ではなく、個人の能力に応じた学年に配置するというのが一般的な考え方のようです。
で、何が言いたいかというと、子供の学力低下が深刻だという話題があります。それについて様々な対策をしてきましたが、根本的に教育スタイルが間違っているということを理解しなければなりません。
日本の教育は、全員が同じレベルを目指して教育することが前提です。例えば、合格するまで何度もテストをしたり、全教科の成績をまんべんなく伸ばすことを目指したりするなどの特徴が挙げられます。
この教育方法によって、諦めず繰り返し取り組む姿勢を身につけ、努力によって能力を伸ばせると考えられています。また、日本の教育はできることが当たり前とされているのです。
「子供に真の学力を!」と願うのであれば、塾という存在もなくなっていくことでしょう。日本の教育は海外と戦う土俵が違うのに、同じ尺度で考えようとすること自体が間違っているのです。他国よりも優秀な教育ができていないのに、学力を高めることなどできるはずがありません。
大人の理想を子どもに押し付けるような教育をして何が楽しいのでしょうね?
通知表がやってくる
いよいよ年度末を迎えようとしています。
一年間を踏まえた子どもの活動を評価した通知表が返却されますね。
ところが、この通知表・・・やっぱり疑問が残ります・・・
通知表の数字って学生からすると非常に大切な要素だと思います。
私自身も学生時代はこの通知表の数字に一喜一憂しました。
現在、立場が変わって、評価をつける側になって多くのことに疑問を抱いています。その中のひとつに通知表の評定の数字があります。
そもそも「通知表の数字」「成績」に関して私は、学生のころから、疑問を抱いてきました。都道府県によって、様々な成績の状況があると思います。そのため、私が現在住んでいる地域での学校教育現場での成績に関して、疑問に抱いたことを紹介したいと思います。
中学校での成績は高校進学に大きな意味を持っています。それは「内申点」として入学試験を受ける前のアドバンテージになるからです。そのため、すこしでも良い成績を得ようと生徒だけでなく、保護者も興味を持っています。基本的にこの成績は、各学期末に渡される通知表を基に計算し、内申点を知ることができます。
残念ながら、この通知表の数字は公平性に欠けます。なぜなら、それぞれの学校で評定(通知表での各評価=5段階が多い)の割合が決められいることがあるからです。
どういうことかというと、A学校で80点で5の評定をもらうことがある一方で、B学校では85点で4の評定になることがあるのです。同じテストを実施することがないので簡単に比較することはできませんが、それぞれの学校の学習のレベルによって評定の差がうまれるということです。
上記の場合、A学校は学力が低く、B学校では学力が高いので、5の評定の人数の上限となるテストの点数が異なってきます。そのため、B学校の生徒がA学校へ転校した場合、評定が5になることがあるということです。また、同様に、A学校の生徒がB学校に転校した場合は評定が4に下がることがあるということです。
要は、地域によって学習能力の差があるため、各学校での評定の差が生まれてくるということです。そのため、他校では優秀な成績になるけれども、自校では、成績優秀者が多いため望ましくない成績になってしまう生徒が出てくるということです。
最近では、この人数の割合に関する規定の文章は削除されたようですが、未だに暗黙のルールとして残っているようです。個人的には、不公平感のある成績でアドバンテージを作るのではなく、入学試験一発勝負のほうがいろいろ納得できるでしょうし、教員の業務改善にもつながると思うのですが、どういった狙いがあるのでしょうね。
もしかしたら、こういった内容は公表すべきでないのかもしれませんが、社会の人々を納得させることができない評定のつけ方は問題だと思います。
評定に関して間違った理解をしているかもしれませんが、少なくとも教員生活をしてきた中で違和感しか覚えません。特に学年の中で複数の教員で教科を担当している際にすべて同じ評価をしているはずがないからこそ、常に平等な評価がされているとは思いません。
沈黙することは簡単ですが、意見を世間に出すことによって問題が明るみになるのかもしれません。この内容によって、何か大きな変化の兆しとなればありがたいです。
学級崩壊 学校崩壊
コロナ禍以降、『学校崩壊』の事態に直面する学校が増えている印象があります。
『学級崩壊』は、シンプルに言うと1つのクラスが荒れていることを指すのに対し、『学校崩壊』はそれが学校全体に及んでいる状態を指します。学級崩壊の場合は、担任の言うことを聞かなくても隣のクラスの先生や校長の言うことは聞くケースが多いのですが、学校崩壊は誰の言うことも聞かないため、より深刻です
学校崩壊の中身は中学校と小学校で違いが見られます。
中学校は教科担任制で、先生が学年で固定されるため、学級崩壊というより『学年崩壊』が起きやすく、そこから学校崩壊につながる傾向があります。生徒間の暴力やいじめ、授業の放棄、先生への反抗、飲酒・喫煙といった生徒の行動に起因することが多く、問題行動を起こす生徒が卒業するまで改善しにくいこともあるのが特徴です。
ただ、こうした目立った問題行動はほとんどなくなっており、それよりも不登校のほうが課題となっています。学校崩壊は小学校のほうが深刻です。
小学校においても不登校のほうがより大きな課題ではあるが、中学校に比べて「担任の指導の色」など学校側に起因する学校崩壊が多くなっているように見えます。
例えば、授業中に理由なく歩き回る児童に対して担任が一方的な指導を行うことで、さらなる反抗を招いて学級崩壊が起こり学校全体へ波及していくといった、担任の管理不足やスキル不足に起因するケースが多く見られます。
複数学年を1人で受け持つ音楽や図工などの専科教員の影響も大きく、私が聞いた小学校の学校崩壊の事例としては、専科教員の授業から学級崩壊が始まり、それが複数学年に及んで学校崩壊へと至ったケースがあります。
また、病休・産休の代替教員が見つからない場合や、1つの学級が崩壊して支援を必要とする状況になった場合に、そこへサポートに入る教員が自身の学級の児童のことに手が回らなくなり、新たな学級崩壊を招くこともあるそうです。
そのほか、学級内で問題行動を取る児童に担任が過剰に対応することで、それ以外の児童が置き去りにされて不満が表出することもあります。教員が児童を叱る声を別の児童が怖いと感じて不登校になり、その保護者の対応などでいっぱいいっぱいになって学級経営がうまくいかなくなるケースも見られます。
学級崩壊の原因は多様ですが、以前より頻繁に起きるようになったことで学校崩壊にまで発展してしまうケースが珍しくなくなっています。そもそも中学校に比べて小学校の教員配置は少ないため、学級崩壊が続けば教員たちの余裕はなくなり不協和音も生まれやすく、一気に学校崩壊へと進むこともあります。さらに、働き方改革やコロナ禍を理由に行事の削減を進めたことで保護者や地域の人々との信頼関係が希薄になっていると、支援が必要な際に理解や協力が得られず学校崩壊に向かうこともあるのが実態です。
小学校での学級崩壊は、以前は5・6年生が中心だったものの、最近は1年生の時点から起こることもあり、低年齢化が進んでいます。その背景としては、保護者の価値観の多様化や、幼稚園・保育園からの環境変化への適応の難しさが考えられます。
以前は、『先生の言うことだから聞きなさい』と子どもに伝える保護者が多かったのに対し、現在は『学校でも子どもの個性ややりたいことを尊重すべきだ』と考える人が増えてきています。学校のやり方に疑問を持って過剰な介入をする保護者がいることも、教員の指示が子どもに伝わりにくくなっている一因かもしれません。また、立ち歩きが多いことに関しては、特別な支援が必要な子が増えている背景もありますが、主体的な活動を重視する幼稚園・保育園の増加もあり、『授業中は座っていなければならない』という感覚の薄い子どもも増えているように見受けられます。
これからの日本が本当に心配です。
日本と世界の教育を比べて
日本の教育と世界の教育は、いくつかの側面で異なりますが、共通点も多く見られます。ここでは、教育システム、学習環境、教育の目的などの観点から、両者を比較してみます。
- 教育システム
日本の教育システムは、義務教育が小学校6年間、中学校3年間、計9年間となっており、その後は高校3年間を経て大学に進学するのが一般的です。義務教育がほぼすべての子供に提供され、全国で均等な教育の機会が確保されています。小中高はすべて公立が主流で、学費は比較的低いものの、私立の選択肢もあります。
一方、世界の多くの国々では、教育システムに差異があります。アメリカでは、小学校(1-5年)、中学校(6-8年)、高校(9-12年)に分かれており、大学の進学先は多様であり、学生は自己の興味や将来のキャリアに基づいて科目を選択することができます。ヨーロッパでは、国によってシステムが異なりますが、多くの国では、高校を終えた後に大学の選択肢が広がり、専門学校や職業訓練に進む道もあります。
- 教育の目的とアプローチ
日本の教育は、知識の習得と、集団での調和を重視する傾向があります。学力の向上はもちろんですが、協調性や責任感、礼儀など、社会で必要な価値観や態度も教えられます。特に学校生活では、授業以外にも掃除や集団活動を通じて、個々の学生が社会に適応できるように育成されることが多いです。日本では、学業の成果が非常に重視され、進学や就職に大きな影響を与えるため、受験戦争などが過度に競争的になりがちです。
世界では、教育の目的やアプローチに国による違いが顕著です。例えば、フィンランドの教育システムは、学業における成果以上に、子供たちの創造性や批判的思考、問題解決能力を養うことに重点を置いています。授業時間が比較的短く、教師の質が非常に高いことでも知られています。また、アメリカやカナダでは、学生が自分の興味に基づいた選択をすることが奨励され、個々の生徒が自由に学ぶことができる環境が提供されています。
- 学習環境
日本の学校は、一般的に規律が厳しく、教師が主導で授業が進行します。学生たちは規律正しく、授業に集中し、集団の一員として協力して学ぶことが求められます。このため、学校内での集団活動や、協力して課題を達成することが多く、協調性が育成される一方で、個々の創造力や個性が抑制されることがあるという批判もあります。
世界の教育環境では、特に西洋の国々では、個性や自己表現が重視される傾向があります。アメリカやカナダでは、授業でのディスカッションやプロジェクト型学習が一般的で、学生は積極的に意見を述べたり、チームで協力したりすることが求められます。こうした環境では、学習過程において個人の独自性が尊重され、創造的な思考が促進されるとされています。
- 評価方法
日本では、学力テストや受験が非常に重視されており、成績が進学先や就職先に大きく影響します。特に大学受験に向けての準備が早期から始まり、学生は厳しい受験競争に直面します。テストの結果に基づく評価が主であり、知識量を測ることに重きが置かれています。
一方、世界の多くの国々では、評価方法が多様化しています。例えば、フィンランドでは、試験は少なく、教師の観察やポートフォリオ、プロジェクトなどを通じて、学生の成長を総合的に評価する方法が取られています。アメリカやカナダでは、成績の他にも課題やプロジェクト、ディスカッションの成果などが評価に含まれ、学業以外の活動や社会的貢献も重視されることが多いです。
- 教育格差
日本では、地域間や家庭の経済状況による教育格差が存在しますが、全体的に見ると教育の質が均等に保たれており、公立学校でも質の高い教育が提供されています。しかし、私立学校との間で設備やカリキュラムの違いがあることも事実です。
世界では、特に発展途上国においては、教育の機会に大きな格差が存在することがあります。例えば、アフリカやアジアの一部地域では、教育を受けられる子供が少なく、教育施設の整備が不十分なことが問題となっています。また、先進国でも都市と地方、富裕層と貧困層との間で教育の質に差があり、教育格差が社会的な不平等を生む要因となっています。
結論
日本の教育は、規律や知識重視の側面が強く、集団での協調性を養うことに重点を置いていますが、世界の教育はより個別的で創造性や批判的思考を重視する国が多いです。それぞれの教育システムには強みと課題があり、世界の教育から学ぶべき点も多い一方で、日本の教育システムにも改善の余地があると言えます。今後、国際的な視野で教育を見直し、より多様な価値観を反映させた教育のあり方が求められるでしょう。